「かくあるべし」なんて、ない ~さよなら平成ライダー~

全てはここから始まった。
 
こんにちは、千星華です。
今日無事に仮面ライダージオウも終わり、平成ライダーシリーズは完結しました。やっと平成が終わったぜw
OQ映画感想記事で書いた通り、OQ映画で一番語りたかったこと――ひいては平成ライダーシリーズで一番語りたかったことを書こうと思います。
集大成であり、ジオウと言う名の物語。
 

クウガから壊された「仮面ライダーの常識」

2000年から始まった仮面ライダークウガは、「改造人間ではないライダー」といういきなり1号から続いていた仮面ライダーの常識を一つ壊していました。
そして対する敵も一応ボスと幹部という形式はあったものの、ほとんどが自由にやっているという「組織」ではなく「種族」でした。
中盤になり、日本語を覚えた怪人に対して警察が「何故人を殺すのか」と問うと、「ゲームだから」と答えて来ます。
自ら縛りを入れつつ、既定の人数を殺すゲーム。そのゲームをクリアすることで、さらなる上位ランクに上がる。それが敵の目的でした。
そんな狂人たちの「ゲーム」をただひたすら阻止し続ける。そんな終わりの見えそうにない戦いに飛び込むただの人間のお話。
クウガは今までの仮面ライダーの常識を壊す、まさに「A New Hero. A New Legend.」の話でした。
 

千星華の中で平成ライダーの根本を築いた「仮面ライダー龍騎」

2002年、クウガ→アギトと続き、仮面ライダー龍騎がお披露目になりました。
千星華が最初に龍騎の画像を見た感想は、「何だこれは!?」でした。
これなんだもん
ライダーのトレードマーク?でもある赤い目はあるものの触角は面部分と融合してるし、そもそも剣道のお面に近いこの顔立ち。
しかも2号ライダーであるナイトはその赤い目すらなかった。フルフェイスヘルムでした。
 
話も「願い事を叶えるために最後の一人になるまで戦う」というあらすじは知ってましたが、まあ最終的には仮面ライダーだし協力して戦うのだろう…と何となく考えてました。
でも、そうではなかった。
いきなり出てきたザ・悪党な「仮面ライダーシザース」。刑事として働く裏で殺人を犯しては隠蔽し、改心することなく食われた「仮面ライダー」。
その後も猟奇殺人鬼の仮面ライダー王蛇やサイコパスじみてる仮面ライダータイガと、お世辞にも善人とは言えないライダーが出てくるようになり、従来の仮面ライダーの形はどんどん壊されて行きました。
そして最終話手前、城戸真司は雑魚モンスターから一般人を守って命を落とします。
 
何それ。どういう事よ。これ本当に仮面ライダーかよ。
 
ええ、混乱しましたよ。映画で最終回と言っときながら、実際の本編は違った流れになるし、最終話手前で主人公はラスボスとは関係ない所で死んでるし。
しかし、龍騎は平成ライダーシリーズに置いて、大きなターニングポイントになったのではないかと思ってます。
 

走るモモタロス。バイクから遠ざかってもライダー魂は遠ざかっていない。

龍騎からしばらくの間(というか龍騎始まってから)、「ライダー始まってる時間に起きられない」という理由で、平成ライダーからは遠ざかっていました。
しかし、そんな中で1度だけ千星華を仮面ライダーに引き戻したのが「仮面ライダー電王」でした。
見た目の奇抜さはもう伝統行事として、目を引いたのは「電車に乗っている」という事。
そして見た目はどう見ても怪人なイマジンが、仮面ライダーをやっているという事。
 
奇抜な設定を詰め込んだだけのように見えた電王は、その実緩く見れるコメディであり、時間と言う大きなテーマと向き合った話でした。
 
確かにバイクは影が薄くなっていましたが、完全に失われたわけではない(と言うか交通規制などもあって、大っぴらにバイクを走らせられなくなったのもある)。
バイクから遠ざかっていても、見た目が悪でも、きちんとヒーロー。
 
結局のところ、電王もまた平成ライダーの一員でした。
そしてまた「起きられない」という理由で、ゴーストまで遠ざかります。
 

ぶっとんだデザインもまた、平成ライダーの味。エグゼイド。

その目に「黒目」を入れたエグゼイド。
 
デザインの奇抜さなら、まずぶっちぎりでしょう。しかもモチーフがゲームと医療という、関連性が全く見えない2つ。
奇抜デザインに慣れてきた千星華も、「本当にこれは話になるのか?」「デザインがぶっ飛びすぎてるんじゃないのか?」といささか不安になりました。
しかし先行お披露目であるゴーストの夏の映画を見て、「あれ、これ面白くなるんじゃないのか?」と思いましたね。
そして予想通り、エグゼイドはとても面白かった。徹底的にゲームや医療を話に取り入れた内容に、面白いキャラクター(主に神)。
クロニクルの「実はプレイヤーこそ狩られる立場」という逆転設定も、「ゲームそのものが自分たちに牙をむいた」という話でとても面白かったのです。
 
もはや見た目や取り扱うモチーフすら、「仮面ライダー」の枠にとらわれていない。
エグゼイドはそれを見事に現したのではないかと思っています。
 

平成ライダーはめちゃくちゃだから面白かった。それを改めて教えてくれたジオウ映画。

ライダーに限らず、長く続くシリーズ物は「〇〇はこうあるべし」という見えない鎖に縛られがちです。
それはその「かくあるべし」を深く愛しているファンが辛抱強く付き合ってくれているという事なのですが、逆にそれが新しい事にチャレンジする事を拒んでしまっています。
クォーツァーもそうでした。SOUGOは「かくあるべし」をいろんな形で否定してめちゃくちゃにしてきた平成ライダーシリーズを「凸凹で醜い」と称し、綺麗にしようとしていました。
 
しかしそれは、新しい事を模索し続けてチャレンジする事を否定する事。
ソウゴは「凸凹で何が悪い。その時その時みんな必死だったんだ」と言い切ります。
 
名作扱いされている作品も、リアルタイムで見てれば「何これ!?」や「〇〇シリーズを終わらせるつもりか」と非難ごうごうだった頃もあったりします。
それでもその非難を跳ね除けて、新しい事にチャレンジしてやりきった結果、名作へと昇華された。
 
そしてその凸凹もごり押しし続ければ、面白くなっていく。
 
ウォズが本を破り捨てる事により、タブレットから、宣伝ポスターから、漫画からライダーが飛び出し敵を倒す。
こんな展開、今まで誰が考えたでしょうか。
こんな展開、今まで誰が許してきたでしょうか。
 
 
平成仮面ライダーシリーズには、「こうあるべし」はない。
 
 
こちらの考える既定路線やテンプレを破壊して、その後から新しい面白い物を作り上げていく。平成ライダーは、ずっとそうやってきたのです。だから面白くてずっと追いかけてこれたんです。
千星華にとっての平成ライダーシリーズは、そんな感じです。今までも、そしてこれからも。
 
 
そんな平成ライダーシリーズは、今日のジオウ最終回において終了しました。
ありがとう、仮面ライダー。
お疲れ様、仮面ライダー。
 
そして来週からよろしく。仮面ライダー。